指輪物語と民主主義

権力の破壊の物語としての指輪物語

「指輪物語」は、イギリスのJ・R・R・トールキンによる長編小説です。
「指輪物語」を読んだことがなくても、映画の「ロード・オブ・ザ・リング」の三部作をご覧になったという方は多いでしょう。

主人公の、ホビットであるフロド・バギンズは、叔父のビルボ・バギンズから家や家財と共に、指輪を相続します。実は、冥王サウロンが自らの魂の一部をこめた「主なる指輪」「支配する指輪」「一つ」とも呼ばれる、「一つの指輪」でした。

物語の中では、その指輪を嵌めると、姿を消すことができるのですが、実際にはそれだけではありません。

Wikipediaの記述では、以下のように説明されています。
この指輪を身につけると、人は物理的な領域から精神的な領域へ部分的に「変移する」と考えられる。その上で装着者が自分の意志に指輪の意思を従属させたならば、指輪をなくす前にサウロンが持っていたすべての力を振うことができる。特に他者の意志を制御し、奴隷にすることができる。
指輪を持つことは、副作用を伴います。
指輪の性質の一部は、(逆のどんな意図があったにせよ)着用者をゆっくり、しかし間違いなく蝕むことである。これが指輪の魔術として特に設計されたのか、単にその邪悪な起源のためかは不明である(サウロンがそのような特性を一つの指輪に賦与したとも考えられるが、恐らくかれ以外の者がこの指輪を付けることは想定していなかっただろう)。指輪を制御できるほど強靭な意志の持ち主なら、サウロンを滅ぼすために用いることも可能なのだが、最初は善なる目的に使っていたとしても、最後には新たな冥王となってしまうのである。このために、ガンダルフ、エルロンドおよびガラドリエルを含む賢人たちは、指輪を自分たちの防御のために用いることを拒絶し、その代り、それが破壊されなければならないと決めた。

「一つの指輪」と「権力」

「一つの指輪」と同じものが、現実世界にあります。それは「権力」です。

権力は、人を簡単に虜にして、人を変えてしまいます。その事は、歴史上の文献や名言など、言及したものが数多くありますし、検索でもすれば、名言だけでなく、各種研究資料も出てくるので、ここでは書きません。

権力は、「一つの指輪」と同様に、持つ人を徐々に蝕みます。

厄介な事に、その効力の及ぶ範疇や強弱に違いはあるものの、権力は至るところに存在します。政治の世界以外にも存在します。子供たちの社会にも、ママ友のコミュニティにも、学校にも、部活にも、職場にも、人間社会の人の集団が存在するところに、様々な様相で存在します。

「一つの指輪」=「権力」による変化

映画「ロード・オブ・ザ・リング」では、ガンダルフ、エルロンド、ガラドリエルなどの賢者達が「自分ならば制御できる」と一瞬考えるものの、自分自身が変質してしまうことを考えて触れることすらしません。そして、指輪の破壊を、フロドに託します。

フロド自身は、滅びの山オロドルインで、まさに指輪を火の中に投げ入れて破壊しようとする段になって、完全に指輪の虜となってしまいます。叔父のビルボ・バギンズの前の指輪所有者であった、ゴラムが、フロドの指を噛み切って、指輪と共に火の中へ落ちていくことで指輪は破壊されます。

指輪を失うと、所有者だったものは、皆、同様に喪失感と指輪への渇望にさいなまれる事になります。
指輪所持者は中つ国に生まれたものであっても、エルフたちとともに不死の国アマンへ渡航する権利を得る、あるいはそうするよりほかにない。指輪の喪失によってこうむる苦痛は、この世の手段では癒せないからである。
映画の中で、ゴラムは、フロドと同じくホビットであり、指輪に蝕まれた成れの果ての姿であり、フロドは自分の近い将来の姿であると 気づきます。だからこそ、ゴラムに対する哀れみと、同情、そして共感を持ちつつ、自分の変化を恐れます。

フロドが、あのように、指輪を投げ入れて破壊する段になって、指輪の虜になってしまったことを誰に非難できるというのでしょうか。指輪に触れることすら恐れた賢者たちが、フロドへ指輪の破壊を託したのです。誰も、彼の変化を非難することはできないのです。

権力も、指輪同様の変化を持つ人へ及ぼします。
ところが、権力による人格の変化、権力の虜になり、権力によって集まってくる金銭やその他の利益を享受する事を、私たちは、まるで聖人であるかの如く、非難します。

ガンダルフも、エルロンドも、ガラドリエルといった賢者たち、旅の仲間の誰一人として、フロドが指輪に取り込まれてしまった事を非難しないのに。

「一つの指輪」=「権力」を誰に託すか

Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely.
(「権力は腐敗する、絶対的権力は徹底的に腐敗する」)
イギリスの歴史家・思想家・政治家であったジョン・アクトン男爵が述べたように、「権力」が「一つの指輪」と同様に、必然的に人を変化させてしまうものであるならば、私達は、この「権力」の担い手を、慎重に選ばなくてはなりません。

「権力」の担い手を選ぶのは私達です。その「担い手」が「権力」で変わってしまって、何か過ちを犯してしまっても、それは、「担い手」を選んで託した私達の責任です。必ず、「権力」によって人は変わってしまうからです。

私達は、「権力」という必要悪を、例え立候補した「担い手」となったとしても、これを押し付けた事への後ろめたさを感じるべきであり、「権力」に取り込まれてしまって、不正を働いたとしても、それを非難する権利は持ち合わせていないのかもしれません。

指輪の担い手への報いと民主主義の意義


確か、田中芳樹氏の「銀河英雄伝説」の中で、「民主主義は決して最良の政体ではないが、全員で責任を負う点においてのみ優れている」みたいな事を書いてある下りがあったと記憶しています。

私達は「権力」の担い手を選んだ責任があります。そして、その責任を自覚し、次なる「権力」の担い手を選ぶ際に、より適切なる担い手を選ぶことができる点において、民主主義は優れています。

それなのに、選んだ責任については考えもせず、「権力」の虜になってしまった担い手を責めるだけでは、民主主義の意義を失うのです。その点を私達は自覚しなくてはいけません。

「指輪物語」では、指輪所有者は、その癒えることのない傷のために、不死の国アマンへ行く権利を得ます。それが、指輪所有者への報いです。

しかし、民主主義国家においては、「権力」の担い手が権力に蝕まれた際の報いは、非難であり、裁判であり、そして刑務所です。権力は確実に人を変えてしまうと分かっているのに。

「権力は、遅かれ早かれ、人を変えてしまう」という前提に立って、選挙を考えること、何か不正が発生しても、殆どの責任は選んだ側にあるという認識に立つことが、民主主義政治でより良い方向へ進む道なのではないかと考えるのです。

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